野火止用水と引又宿

江戸時代、野火止用水の流末に位置する引又宿には、上の水車、中の水車、河岸の水車(下の水車)と呼ばれる3台の水車があった。志木市立郷土資料館の脇に、当時の大水害の水位を示す表示板が設置されている。

引又地区の住民が地区の鎮守として信仰していた村山稲荷の他、星野稲荷、水神社を浅間社に合祀し、明治41 年に浅間社境内に創建された。

 

引又地区の住民が地区の鎮守として信仰していた村山稲荷の他、星野稲荷、水神社を浅間社に合祀し、明治41 年に浅間社境内に創建された。

 

明治7 年(1874)以降は志木河岸。新河岸川の河岸場の中でも最も栄えた河岸場の一つだったが、河川改修により、昭和5年にその役目を終えた。

 

いろは樋は野火止用水を対岸の宗岡村へ引くために、寛文2 年(1662)に宗岡村の領主岡部忠直の家臣白井武左衛門によって新河岸川の上に掛けられた筧(かけひ)。大桝は、用水の水を一度ためておくために使われた。この大桝は明治31 年に造られたもの。木製から煉瓦積みとなり、樋も木製から鉄管となって川底に埋設された。

 

主屋を含む全7棟が国登録有形文化財。明治20年代に創業された薬局。明治45年建築の店舗兼住宅の主屋をはじめ明治から昭和初期の建物構成がよく残されている。

 

西川家の中庭に建てられていた棟門(むなもん)。扉や柱に武州一揆の刀傷が見られることや伝承から慶応2 年(1866)頃の建築と推定されている。

 

明治10 年(1877)に建築された木造二階建て土蔵造りの店蔵で、本町通りに屋敷を構え、各種家傳薬を製造、販売する薬店であった。平成7 年に解体後、平成13年に現在の場所に復元された。

 

 

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